10年。。。。
2006年7月9日
母が亡くなって、ちょうど10年が経ちました。
これから、記してあるのは、母の発病からのことで・・・
ものすごく長くて、ものすごく自己満足的な文章になってしまいました。。。
事の始まりは、その前年の12月もクリスマス間近・・・
私は、母から1本の電話を受けました。
その年の3月に、結婚した私は、
同じ市内の、車で40分位の距離に住んでいました。
まだ、子どもたちも産まれていなかったので共働きしながら
休みの日は、しょっ中、実家へ遊びに行ったり
母と一緒にゴハンを食べに行ったり、ミュージカルを見に行ったり。。。
その電話を受ける前の週も、ゴハンを食べに行ったりしていたのですが
突然、「明日、検査入院する事になったの。なんだかすごく悪いみたいで・・・。実家の方に来ていてもらえないかな。」と・・・。
母は、私が小さい時は、ちょっと婦人科系の病気を患った事もありましたが、その後はとても健康で、年に1〜2回、風邪をひくかひかないかというくらい、丈夫な人でした。
なので、その電話を受け、私はかなり動揺してしまいました。
つい、何日か前は、とても元気で一緒にゴハンを食べてたのに・・・。
数日後、検査の結果が出て、父と私が呼ばれました。
「肺ガンです。肺だけで見ると、余命半年くらいなんですが、脳に転移していまして、それが無数に広がってしまっているので、手術はできません。余命3ヶ月くらいでしょう。」と、言われました。
頭のレントゲンを見せられ、その腫瘍の数は、大きいのから小さいのまで本当におびただしい数で、よく、今生きていられるなと・・・。
あまりの衝撃に、私は腰に力が入らなくなり、ストンとその場にしゃがみこんでしまいました。
本当にドラマのよう。。。
振り返ってみれば、夏くらいから母に軽く手のしびれがあったりしていました。
が、私はそれを「更年期じゃない?」と、片付けていたのです。
これは、今でも後悔していて、何でその時、気付いてあげられなかったんだろうと。。
些細なことだったけれども、ナゼすぐに病院へ行くことを勧めなかったんだろうと。。。
すごく、すごく後悔しました。
入院直前になってからは、物忘れがひどく、前に電話で話した事も覚えていない、言っていないという症状が。。
健忘症?と、思っているうちに検査入院の電話でした。
ついに、自覚症状が出て来たのです。
母は、長年、同じ職場で働いていて、レジでお金も扱う仕事だったのですが、レジのお金が合わないのに気付き、自分で何かおかしいと感じたようで、病院へ行ったそうです。
最初の病院は、近所のかかりつけの内科だったので
ここでは見られないと言われ、大きな病院を紹介されたようです。
その足で、自分で受診に行き、すぐに次の日、検査入院をする事になったのです。
がんを告知された後は、事務的に今後の治療や抗がん剤の投与などのスケジュールの
説明を受けました。
でも、直感的にここの病院とは合わないと、すぐに確信しました。
なんとなく冷たい、閉鎖的な雰囲気に母を任せられる気にはなれませんでした。
同時に、父も同じ事を思っていたようです。
すごく動揺していたにもかかわらず、父にすぐに大きな本屋さんへ連れて行ってもらいました。
私たちの周りにはがんを患った人などもいないし、とにかく参考になる情報が欲しかったのです。
その頃は、まだ、インターネットもしていなかったので。。。
大泣きそしうな気持ちを抑えながら、いろんなガンに関する本を見てみました。
何冊も買って帰り、読みこみました。
とにかく死なせたくないの一心で。。。
奇跡的に末期ガンを克服した人のお話、免疫力、自然食、その頃流行っていた脳内革命・・・
結果、私と父が考えたのは、抗がん剤の投与をしたくないという事でした。
1度だけ、その病院で確か、すぐに投与したのですが(ちょっとうる覚えです。)
その後の後遺症がすごく、みるみる衰弱してしまったのです。
抗がん剤以外の方法はありませんかと、主治医に相談してみましたが、それしかないの一点張りで・・・
何か、患者本位ではなく、事務的なものを感じ
私たちは、転院させようと決意しました。
ちょうどお正月になり、1週間位、自宅に戻る事ができました。
その間に、転院先を調べたり。
その頃は、セカンドオピニオンという言葉も浸透していなく
転院の際、病院と結構もめたのを記憶しています。
父が、転院先の病院を見つけてきました。
そこは、市内にあるホスピス(終末期ケアの病院)でした。
なんとなく聞いたことはあっても、実際にどういう事をする病院か
分からなくて・・・
まずは、いろいろな説明を受けました。
*患者、その家族がどういう治療を受けたいのかを聞き、可能な限り応えてくれる。
*調子が良ければ、自宅療養も可能。
*患者や家族の精神的な面でのケアをするソーシャルワーカーの存在。
もう、願ってもない所で、お世話になる事になりました。
どん底の気分の中、ひと筋の光を見つけたようでした。
主治医の医師と話し合った結果
*抗がん剤の投与はしない。
*その代わり、延命が期待できるので、別の施設での放射線治療。
*調子が良ければ、自宅療養の切り替え。
*調子を崩せば、すぐに入院の体制。
と、私たちの納得のいく治療内容となりました。
院内は、とても暖かい雰囲気で、温室があったり、頻繁に音楽会などのイベントがあったり・・
本当に過ごしやすい、心地いい所でした。
天気のいい日は、温室で一緒にお散歩したりして、お花が大好きだった母は、日に日に元気を取り戻していきました。
そんな中、長女の妊娠発覚!!
幸い、つわりらしいつわりもなくって・・・
ただただ、初孫を見せてあげられたら。。。
これで、「生きよう」という気力が本人にみなぎってくれたらいいなと思いました。。。
少し経ってから、自宅療養できることになりました。
母の病気が分かってすぐに、父から住んでいるアパートを引き払って
同居して欲しいと頼まれました。
ダンナさんとしては、2世帯住宅でもないし、あまりに突然のことで
気も進まなかったと思いますが、結局、同居してくれることになりました。
ダンナさんに感謝。
私は、仕事を辞め、つきっきりで母の看病をする事に。。。
看護士さんに、点滴の交換・落とし方を習ったり(針の交換は勿論、医療行為なのでしていませんけど。)
食事も、玄米菜食に替え、白いもの(お砂糖など)を控えたものを作ったり、体に良いと言われるものは、いろいろ試したりしてみました。
今、思えば、好きな物食べさせてあげれば良かったな〜と・・・
あんまり美味しくなかったような・・・((アセアセ
でも、その時は、これで治してあげるんだ!と、本気で思っていたのです。
自宅療養をしていて、1度だけ大変な事があって。。。
2人きりの時に、おうちでお風呂に入りたいと言われ、
いいよ〜と、安請け合いしてしまったのです。
普通のユニットバスだったのですが、入ったはいいのですが出られなくなってしまったのです。
既に体力の無くなっていた母には、その僅かな段差を超える体力が無くなっていて、私ひとりしかいなかった為、そこから出してあげるのに四苦八苦で・・・
本人も私もパニックになってしまい、軽はずみに介助の真似事してはいけないなと思いました。
結局、なんとか2人で頑張って、上がる事ができたのですが・・・
介護を仕事にしている人は、偉いなと思いました。
私には、できないな・・半分、人の命預かっているようなものですもんね。。。
母の病状ですが、よく痛いと聞きますが
幸い、脳に転移した為、痛みの中枢をやられていたようで、闘病中は本人が、
あまり痛がらなかったことです。
本当に救いでした。
ただ、その代わり、脳なので、ろれつが回らなくなってきたり
言いたい事がうまく伝えられなくなったり・・・。
まるで、子どもに戻ってしまったよう・・・
そんな状態だったので、告知も特にしませんでした。
言ってしまうと、心のバランスを崩してしまうのが恐くて・・・
すごくしっかりした母だったので、子どものような姿にショックを受けつつも
私がしっかりしなきゃという気持ちでなんとかやっていました。
しかし、母が寝てから二階に戻り
布団に入ると、毎日、本当に毎日、泣いていました。。。
明日は、生きているんだろうかという不安にかられながら・・・
隣にいたダンナさんは、とても困っていたと思います。
あまりに毎日泣いていたので・・・。
ヒトゴトなんだろうな〜とすら思っていました。。。
そうして、見て行くうちに私にストレスも出てきました。
意思の疎通ができなくなったり、少し買い物に出て留守にすると不安がり、
なんだか縛られた状態。。。
私も、息抜きしたいのに・・・イライラしてしまった日々も増えました。
そんな風に思っちゃいけないと思っても、つい・・・
言っている意味が分からなくって、1度だけ怒鳴ってしまった事も・・
後からすごく後悔したのを、今でも覚えています((泣
そんな時、母の姉妹が市内に住んでいたので、家に来てもらった時に
ほんの僅かな時間、友達に逢いに行ったり、本当に近所のスーパーへ行ったりと
息抜きさせてもらいました。
友達には、母が入院した事は伝えましたが
ガンで余命短い事は伏せておきました。
気を使わせてはいけないという想いと、
母は、治るんだから大丈夫!という想いと
(友達と)会う時に、普通の元気な自分に戻りたいという想いで。。
しかし、ある日、私の幼なじみのお母さん(母のお友達)からTELが来た時
父が病状を話してしまったのです。
克服させるから、心配しないでという想いで・・・
すぐに折り返し、私の所に幼なじみから連絡が来て。。。
いっぱい泣かせてしまった。
私も、セキをきったように、いっぱい泣いた。
でも、彼女がいてくれたから、吐き出せる所があったから頑張れたんだなぁ〜と今でも思います。
支えになってくれて、本当に感謝。。。
その後、放射線治療のお陰か、脳に転移したガンに効いたようで
進行が止まったりして、外に少しの時間出掛けられるまでに回復し
3ヶ月の余命を超えていました。
このまま、元気になって欲しい、なるんだ!!と、願うばかりでした。
それから、何度か入退院を繰り返し、私のお腹が大きくなってきた6ヶ月目位から、母の調子はドーンと悪くなってしまいました。
最後の1ヶ月は、ほとんど寝たきりの状態で、更に1週間位前は、意識不明でした。。。
点滴で生かされている姿が痛々しく、かわいそうで、亡くなってしまうのは嫌だけど、ゆっくりさせてあげたいと思ったのも事実でした。
そうして、意識は戻らないまま、息を引き取りました。
1996年、7月9日の夕方でした。。。
*その後は、悲喜こもごもで・・・
自宅で、その日すぐに仮通夜をしてしまったので
母の友人・知人・親戚が集まり。
本当に泣く暇もないくらい。。。
それほど大きくない実家に人がたくさんやって来てしまった中
仕事を終えて帰宅したダンナさんが
人目も気にせず、声を出して泣きながらお線香を上げていました。
彼は、絶対に人前で泣くような人ではなくて・・・
感情を表に出すような人ではないので、ビックリしてしまいました。
後で、聞いてみると、ずっとガマンしていたようで・・・
私が毎日泣いているので、自分が泣く訳にいかないと思っていたそうです。
なのに、ヒトゴトなんでしょって思ってしまったのを謝りたい気持ちでした。
一緒に想ってくれていたのに、ゴメンネ。。。
その後・・・
母は、お茶屋さんの販売をしていたのですが
そこのおえらいさんもやって来ました。
病気発覚で、突然辞めてしまったのですが、どこかから聞きつけて
仮通夜に。。。
帰り際、言いにくそうに「こんな時になんなんだけど、お香典返し決まってなかったら
うちの商品使ってもらえませんか」と言われました。
商魂すさまじいというか、遺族を何だ?と思っているんだろうな〜とショックでしたよ〜。
向こうも商売だから、当然と言えば当然なんだけど。。。
その当時は、怒り心頭でした!!
1ヵ月後?位に、父宛に中年?熟年?向けのお見合いパーティーの
手紙が届いたのも不快でした。。。
一瞬、父が資料請求したのか疑ってしまいましたもん((笑
どうやら、新聞のお悔やみ欄をチェックして
そういう年代の人に送って来るらしいです。。。
まだ、何も癒えてないうちに、キーーーっとなってしまいました。
結局、お葬式が終わるまでの3日間位、ほとんど寝られませんでした。
お葬式には、本当にたくさんの方々が来てくれて
私の幼なじみ、友達、高校の同級生まで。。。
本当にありがたかった・・・
最後のお別れの時、ずーーっと抑えていたものが抑えきれなくなってしまいました。
あんな風に泣き叫んだ事は、初めて。。。
私の世界で1番悲しい出来事でした。
あれから10年。。。
何年かは、ふっとつつかれると涙が反射的に出てくるような感覚だったり・・・
平気だよっていう顔しながら、気付くとメソメソしていたなぁ〜。。。
ちょうど、新米子育て時期ともぶつかり、世界中に私ひとりみたいな毎日を送っていた。。。
暗黒?の時期もあったり・・・
でも、時間ってスゴイなぁ〜と思った。
いろんな事を癒してくれたり、いろんな人と会わせてくれたり、
いろんな場所を知ったり。。。
私の気持ちも少しずつ落ち着いて、今に至ります。
母を看病した事も、子育てと似たところがあったので
少し先に勉強させてくれたのかな・・・なんて思ったり・・・
お友達、親戚、家族。。。
いろんな人にありがとう〜〜〜!!!です。
私のことを大切に想ってくれていた母にも・・・
最後まで、読んでくれた方、どうもありがとうございます。
本当は、書こうかどうしようか、すごく悩んでいて・・・
ありのまま書いてしまったので。。。
でも、ずっと10年間、書き留めていた訳ではなく
心の中に持っていて・・・
いつか、書きたいな〜と、ずっと思っていたのです。
自分の為の記録・記憶。
なんて言いながら、人に読ませてしまいましたが。。。
新たに出発と言う訳ではありませんが、ひとつ何か吹っ切れたような気がします。
なりたい自分になりたいです。。。
これから、記してあるのは、母の発病からのことで・・・
ものすごく長くて、ものすごく自己満足的な文章になってしまいました。。。
事の始まりは、その前年の12月もクリスマス間近・・・
私は、母から1本の電話を受けました。
その年の3月に、結婚した私は、
同じ市内の、車で40分位の距離に住んでいました。
まだ、子どもたちも産まれていなかったので共働きしながら
休みの日は、しょっ中、実家へ遊びに行ったり
母と一緒にゴハンを食べに行ったり、ミュージカルを見に行ったり。。。
その電話を受ける前の週も、ゴハンを食べに行ったりしていたのですが
突然、「明日、検査入院する事になったの。なんだかすごく悪いみたいで・・・。実家の方に来ていてもらえないかな。」と・・・。
母は、私が小さい時は、ちょっと婦人科系の病気を患った事もありましたが、その後はとても健康で、年に1〜2回、風邪をひくかひかないかというくらい、丈夫な人でした。
なので、その電話を受け、私はかなり動揺してしまいました。
つい、何日か前は、とても元気で一緒にゴハンを食べてたのに・・・。
数日後、検査の結果が出て、父と私が呼ばれました。
「肺ガンです。肺だけで見ると、余命半年くらいなんですが、脳に転移していまして、それが無数に広がってしまっているので、手術はできません。余命3ヶ月くらいでしょう。」と、言われました。
頭のレントゲンを見せられ、その腫瘍の数は、大きいのから小さいのまで本当におびただしい数で、よく、今生きていられるなと・・・。
あまりの衝撃に、私は腰に力が入らなくなり、ストンとその場にしゃがみこんでしまいました。
本当にドラマのよう。。。
振り返ってみれば、夏くらいから母に軽く手のしびれがあったりしていました。
が、私はそれを「更年期じゃない?」と、片付けていたのです。
これは、今でも後悔していて、何でその時、気付いてあげられなかったんだろうと。。
些細なことだったけれども、ナゼすぐに病院へ行くことを勧めなかったんだろうと。。。
すごく、すごく後悔しました。
入院直前になってからは、物忘れがひどく、前に電話で話した事も覚えていない、言っていないという症状が。。
健忘症?と、思っているうちに検査入院の電話でした。
ついに、自覚症状が出て来たのです。
母は、長年、同じ職場で働いていて、レジでお金も扱う仕事だったのですが、レジのお金が合わないのに気付き、自分で何かおかしいと感じたようで、病院へ行ったそうです。
最初の病院は、近所のかかりつけの内科だったので
ここでは見られないと言われ、大きな病院を紹介されたようです。
その足で、自分で受診に行き、すぐに次の日、検査入院をする事になったのです。
がんを告知された後は、事務的に今後の治療や抗がん剤の投与などのスケジュールの
説明を受けました。
でも、直感的にここの病院とは合わないと、すぐに確信しました。
なんとなく冷たい、閉鎖的な雰囲気に母を任せられる気にはなれませんでした。
同時に、父も同じ事を思っていたようです。
すごく動揺していたにもかかわらず、父にすぐに大きな本屋さんへ連れて行ってもらいました。
私たちの周りにはがんを患った人などもいないし、とにかく参考になる情報が欲しかったのです。
その頃は、まだ、インターネットもしていなかったので。。。
大泣きそしうな気持ちを抑えながら、いろんなガンに関する本を見てみました。
何冊も買って帰り、読みこみました。
とにかく死なせたくないの一心で。。。
奇跡的に末期ガンを克服した人のお話、免疫力、自然食、その頃流行っていた脳内革命・・・
結果、私と父が考えたのは、抗がん剤の投与をしたくないという事でした。
1度だけ、その病院で確か、すぐに投与したのですが(ちょっとうる覚えです。)
その後の後遺症がすごく、みるみる衰弱してしまったのです。
抗がん剤以外の方法はありませんかと、主治医に相談してみましたが、それしかないの一点張りで・・・
何か、患者本位ではなく、事務的なものを感じ
私たちは、転院させようと決意しました。
ちょうどお正月になり、1週間位、自宅に戻る事ができました。
その間に、転院先を調べたり。
その頃は、セカンドオピニオンという言葉も浸透していなく
転院の際、病院と結構もめたのを記憶しています。
父が、転院先の病院を見つけてきました。
そこは、市内にあるホスピス(終末期ケアの病院)でした。
なんとなく聞いたことはあっても、実際にどういう事をする病院か
分からなくて・・・
まずは、いろいろな説明を受けました。
*患者、その家族がどういう治療を受けたいのかを聞き、可能な限り応えてくれる。
*調子が良ければ、自宅療養も可能。
*患者や家族の精神的な面でのケアをするソーシャルワーカーの存在。
もう、願ってもない所で、お世話になる事になりました。
どん底の気分の中、ひと筋の光を見つけたようでした。
主治医の医師と話し合った結果
*抗がん剤の投与はしない。
*その代わり、延命が期待できるので、別の施設での放射線治療。
*調子が良ければ、自宅療養の切り替え。
*調子を崩せば、すぐに入院の体制。
と、私たちの納得のいく治療内容となりました。
院内は、とても暖かい雰囲気で、温室があったり、頻繁に音楽会などのイベントがあったり・・
本当に過ごしやすい、心地いい所でした。
天気のいい日は、温室で一緒にお散歩したりして、お花が大好きだった母は、日に日に元気を取り戻していきました。
そんな中、長女の妊娠発覚!!
幸い、つわりらしいつわりもなくって・・・
ただただ、初孫を見せてあげられたら。。。
これで、「生きよう」という気力が本人にみなぎってくれたらいいなと思いました。。。
少し経ってから、自宅療養できることになりました。
母の病気が分かってすぐに、父から住んでいるアパートを引き払って
同居して欲しいと頼まれました。
ダンナさんとしては、2世帯住宅でもないし、あまりに突然のことで
気も進まなかったと思いますが、結局、同居してくれることになりました。
ダンナさんに感謝。
私は、仕事を辞め、つきっきりで母の看病をする事に。。。
看護士さんに、点滴の交換・落とし方を習ったり(針の交換は勿論、医療行為なのでしていませんけど。)
食事も、玄米菜食に替え、白いもの(お砂糖など)を控えたものを作ったり、体に良いと言われるものは、いろいろ試したりしてみました。
今、思えば、好きな物食べさせてあげれば良かったな〜と・・・
あんまり美味しくなかったような・・・((アセアセ
でも、その時は、これで治してあげるんだ!と、本気で思っていたのです。
自宅療養をしていて、1度だけ大変な事があって。。。
2人きりの時に、おうちでお風呂に入りたいと言われ、
いいよ〜と、安請け合いしてしまったのです。
普通のユニットバスだったのですが、入ったはいいのですが出られなくなってしまったのです。
既に体力の無くなっていた母には、その僅かな段差を超える体力が無くなっていて、私ひとりしかいなかった為、そこから出してあげるのに四苦八苦で・・・
本人も私もパニックになってしまい、軽はずみに介助の真似事してはいけないなと思いました。
結局、なんとか2人で頑張って、上がる事ができたのですが・・・
介護を仕事にしている人は、偉いなと思いました。
私には、できないな・・半分、人の命預かっているようなものですもんね。。。
母の病状ですが、よく痛いと聞きますが
幸い、脳に転移した為、痛みの中枢をやられていたようで、闘病中は本人が、
あまり痛がらなかったことです。
本当に救いでした。
ただ、その代わり、脳なので、ろれつが回らなくなってきたり
言いたい事がうまく伝えられなくなったり・・・。
まるで、子どもに戻ってしまったよう・・・
そんな状態だったので、告知も特にしませんでした。
言ってしまうと、心のバランスを崩してしまうのが恐くて・・・
すごくしっかりした母だったので、子どものような姿にショックを受けつつも
私がしっかりしなきゃという気持ちでなんとかやっていました。
しかし、母が寝てから二階に戻り
布団に入ると、毎日、本当に毎日、泣いていました。。。
明日は、生きているんだろうかという不安にかられながら・・・
隣にいたダンナさんは、とても困っていたと思います。
あまりに毎日泣いていたので・・・。
ヒトゴトなんだろうな〜とすら思っていました。。。
そうして、見て行くうちに私にストレスも出てきました。
意思の疎通ができなくなったり、少し買い物に出て留守にすると不安がり、
なんだか縛られた状態。。。
私も、息抜きしたいのに・・・イライラしてしまった日々も増えました。
そんな風に思っちゃいけないと思っても、つい・・・
言っている意味が分からなくって、1度だけ怒鳴ってしまった事も・・
後からすごく後悔したのを、今でも覚えています((泣
そんな時、母の姉妹が市内に住んでいたので、家に来てもらった時に
ほんの僅かな時間、友達に逢いに行ったり、本当に近所のスーパーへ行ったりと
息抜きさせてもらいました。
友達には、母が入院した事は伝えましたが
ガンで余命短い事は伏せておきました。
気を使わせてはいけないという想いと、
母は、治るんだから大丈夫!という想いと
(友達と)会う時に、普通の元気な自分に戻りたいという想いで。。
しかし、ある日、私の幼なじみのお母さん(母のお友達)からTELが来た時
父が病状を話してしまったのです。
克服させるから、心配しないでという想いで・・・
すぐに折り返し、私の所に幼なじみから連絡が来て。。。
いっぱい泣かせてしまった。
私も、セキをきったように、いっぱい泣いた。
でも、彼女がいてくれたから、吐き出せる所があったから頑張れたんだなぁ〜と今でも思います。
支えになってくれて、本当に感謝。。。
その後、放射線治療のお陰か、脳に転移したガンに効いたようで
進行が止まったりして、外に少しの時間出掛けられるまでに回復し
3ヶ月の余命を超えていました。
このまま、元気になって欲しい、なるんだ!!と、願うばかりでした。
それから、何度か入退院を繰り返し、私のお腹が大きくなってきた6ヶ月目位から、母の調子はドーンと悪くなってしまいました。
最後の1ヶ月は、ほとんど寝たきりの状態で、更に1週間位前は、意識不明でした。。。
点滴で生かされている姿が痛々しく、かわいそうで、亡くなってしまうのは嫌だけど、ゆっくりさせてあげたいと思ったのも事実でした。
そうして、意識は戻らないまま、息を引き取りました。
1996年、7月9日の夕方でした。。。
*その後は、悲喜こもごもで・・・
自宅で、その日すぐに仮通夜をしてしまったので
母の友人・知人・親戚が集まり。
本当に泣く暇もないくらい。。。
それほど大きくない実家に人がたくさんやって来てしまった中
仕事を終えて帰宅したダンナさんが
人目も気にせず、声を出して泣きながらお線香を上げていました。
彼は、絶対に人前で泣くような人ではなくて・・・
感情を表に出すような人ではないので、ビックリしてしまいました。
後で、聞いてみると、ずっとガマンしていたようで・・・
私が毎日泣いているので、自分が泣く訳にいかないと思っていたそうです。
なのに、ヒトゴトなんでしょって思ってしまったのを謝りたい気持ちでした。
一緒に想ってくれていたのに、ゴメンネ。。。
その後・・・
母は、お茶屋さんの販売をしていたのですが
そこのおえらいさんもやって来ました。
病気発覚で、突然辞めてしまったのですが、どこかから聞きつけて
仮通夜に。。。
帰り際、言いにくそうに「こんな時になんなんだけど、お香典返し決まってなかったら
うちの商品使ってもらえませんか」と言われました。
商魂すさまじいというか、遺族を何だ?と思っているんだろうな〜とショックでしたよ〜。
向こうも商売だから、当然と言えば当然なんだけど。。。
その当時は、怒り心頭でした!!
1ヵ月後?位に、父宛に中年?熟年?向けのお見合いパーティーの
手紙が届いたのも不快でした。。。
一瞬、父が資料請求したのか疑ってしまいましたもん((笑
どうやら、新聞のお悔やみ欄をチェックして
そういう年代の人に送って来るらしいです。。。
まだ、何も癒えてないうちに、キーーーっとなってしまいました。
結局、お葬式が終わるまでの3日間位、ほとんど寝られませんでした。
お葬式には、本当にたくさんの方々が来てくれて
私の幼なじみ、友達、高校の同級生まで。。。
本当にありがたかった・・・
最後のお別れの時、ずーーっと抑えていたものが抑えきれなくなってしまいました。
あんな風に泣き叫んだ事は、初めて。。。
私の世界で1番悲しい出来事でした。
あれから10年。。。
何年かは、ふっとつつかれると涙が反射的に出てくるような感覚だったり・・・
平気だよっていう顔しながら、気付くとメソメソしていたなぁ〜。。。
ちょうど、新米子育て時期ともぶつかり、世界中に私ひとりみたいな毎日を送っていた。。。
暗黒?の時期もあったり・・・
でも、時間ってスゴイなぁ〜と思った。
いろんな事を癒してくれたり、いろんな人と会わせてくれたり、
いろんな場所を知ったり。。。
私の気持ちも少しずつ落ち着いて、今に至ります。
母を看病した事も、子育てと似たところがあったので
少し先に勉強させてくれたのかな・・・なんて思ったり・・・
お友達、親戚、家族。。。
いろんな人にありがとう〜〜〜!!!です。
私のことを大切に想ってくれていた母にも・・・
最後まで、読んでくれた方、どうもありがとうございます。
本当は、書こうかどうしようか、すごく悩んでいて・・・
ありのまま書いてしまったので。。。
でも、ずっと10年間、書き留めていた訳ではなく
心の中に持っていて・・・
いつか、書きたいな〜と、ずっと思っていたのです。
自分の為の記録・記憶。
なんて言いながら、人に読ませてしまいましたが。。。
新たに出発と言う訳ではありませんが、ひとつ何か吹っ切れたような気がします。
なりたい自分になりたいです。。。